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ART特集 Archive

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 TOKYO COVERS

BUNNY PAUL Paul Smith × tarout Exhibition

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BUNNY PAU

HIROSHI TANABE

HIROSHI君おめでとう!! #2 05 やばいね!!大好き!!
http://hiroshitanabe.com/

『カメラになった男』 中平卓馬

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今、下北沢で再上映されているドキュメンタリー映画があります。
写真好きの僕の中では伝説の男、中平卓馬さんです。1960年代末から70年代にかけて、

PROVOKE

などで、『ブレボケ』と呼ばれた粗粒子でハイコントラストのモノクロ写真により、世の中を挑発した写真家。

映画は、主に中平さんの今(当時2002年8月頃)にスポットをあてた内容になっています。といっても過去の写真や内容も出てきますので、写真をはじめたばかりの人にも、僕のように中平さんの今を知りたい人にもおすすめです!!!これから、見る方に配慮して詳しい内容は伏せますが、自分なりに感じたことを書きたいとおもいます。
個人的になぜこの映画を見たかったかといえば、中平さんが、どんなしゃべり口なのか、どんな風に撮影しているのか、どんなキャラクターの人なのか、という単純なところに一番興味があったということでしょうか。少し変わってるかもしれませんが、そんな僕の見たいところも満足させてくれました。
中平さんの赤いキャップ、赤いシャツ、赤いプーマのスニーカー、赤いショートホープ、そのショートホープにメモ書きされた赤いインクのボールペン、愛用のcanonのF-1の赤いストラップ、こんなにも赤の似合う人はいないんじゃないかというほど赤が素敵に似合っていました。
赤好きには情熱的な人が多いといいますが、映画のなかでの、沖縄での写真家東松照明さんのトークショーに写真家の森山大道さんや同じく写真家の荒木経惟さんらと出席しているシーンがあります。
そのなかでの中平さんの沖縄に対する熱い答弁に、その赤好きたる所以を、沖縄に対する所以を見ることができます。最後に、僕に熱く響いた中平さんの言葉をひとつ。『僕ぁねぇ、写真ってのはねぇ、クリエイションじゃなくて、ドキュメントだと思うんだよねぇ』。。。ん〜響きますねぇ〜。

みなさんも是非、中平卓馬さんのメッセージを聞きに下北沢に足を運んでみてはいかがでしょうか。


posted by staff : Ryosuke(keiichi nitta studio)

art特集 : Nick Zinner Exhibition

みなさんこんにちは。keiichi nitta studio、元studio managerのtomoです。
桂一さんから一声かけていただいたので久しぶりにart特集行きます。

お題は今日まで来日していたYYYsのNICK ZINNERの写真展。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


11/23から渋谷《SOCIAL》にて、YEAH YEAH YEAHSというロックバンドのギタリスト・NICK ZINNERの写真展が現在開催されている。正直なところ、『えっ??音楽畑の人が写真展…??』 それがまず、僕の抱いた率直な気持ちであった。


そうでなくてもデジカメの登場やパソコンの普及による、写真に対する敷居の低化はこの数年で顕著な傾向として見られる。誰でも撮れる様になったからこそ、作品の自由さ・可能性はより高まる一方で、やはり総合的な観点から言えば、写真全体のクオリティが低下するのは目に見えた事実だ。そういった近頃の "広がりすぎた写真たち" に辟易していた僕は、『ああ、またこのテイストか・・・』と、ハナからまったく期待していなかった。もはや誰もが気軽に始めることの出来る写真。ともすれば写真家として写真のみを執念のごとく撮り続ける人々だけが出来るような唯一性はなくなったかの様に見え、どんな人でも今日からスキなだけ撮ることができる。しかし、それでは足りないなにかが写真にはあるのだった・・・。


ミュージシャンの撮る写真。それが音楽関係のもの、強いて言うならば自らのライブの様子などやメンバーの写真・・・そういったもので連なり構成されうるであろうことは目に見えて分かっていたし、実際、彼の写真集『I Hope You Are All Happy Now』の中身は"期待を裏切ることなく"、そのテイストのもので構成されていた(もちろんそれ以外にも面白いショットはたくさん載っているけれど)。

が、今回のphoto exhibition。見事にそうした僕の、いやらしい浅はかな予想のウラをかき、かなりのクオリティを見せつけてくれた。彼は"本質的な写真"を撮る・・・"写真作家"だった。


展示枚数は多くもなく少なくもない、総計22枚。一枚一枚の大きさはそれぞれで、小さいものでA4サイズ、大きなものでB2サイズといったところだろうか。『もっと多くても良かったのでは・・・』という声もでる枚数だが、この枚数は展示会場の大きさとも絶妙なフィットを醸しているし、一枚一枚をじっくり鑑賞するという意味では正当派でもある。ぼくは、堂々としていて好きだ。

ちかごろの写真はグラフィティ化の傾向があるから、枚数で勝負する展示が多い。"なんでもかんでも張ればいい"といったスタイルには慎重にならなければならない。もちろん、方法論は百人百色であっていいだろうし、方法論なんて存在しない写真という表現に定義もクソもない。だが、枚数で勝負することとは、実を言うと『一枚一枚に中身とパワーがないと何も伝わらない』という二律背反を潜在的に持ち合わせている。つまり、ただ表層的な美しさのみを抽出して写真を飾ったところで、それは『写真』ではなく、『イメージ』なのだから。


さて、ぼくはartというものをまともに勉強したことがない浅学非才な人間なので、偉そうなことは言えないし、見事に間違っていて滑稽な見解も多々あることだろう。だがそうした批判を恐れずニック・ジナーの写真を分析するならば、一見して彼の作品からは視覚芸術におけるミニマリズムの影響を多大に受けている感がある。つまり、"断片的な像の露出"こそが今回の写真展のキーとなっており、装飾的・説明的要素を出来うる限りそぎ落としているという点で、ミニマム・アートのひとつとして認識して良いだろう。ここで問題なのは、『ただそれだけでは作家とは呼べない』ということ。では彼の場合、そこをどうクリアしているのだろうか。


ここで注目したいのは、彼の写真からは確かに"部分的で具体性に欠けている"という印象こそ受けるのだが、だからといって彼の視線が根こそぎ削ぎ落とされているかと言ったら、それは決して違うということである。つまり、部分部分でこそあれ、それらの要素は紛れもなく彼と密接に関係されたパーツであると同時に、彼の眼に写った"撮りたいと感じたものたち"であることが確認できる。そこに彼の作家性は潜んでいた。そしてそれらは、決して自己主張することなく並ぶ。静かに、ただただ人々に受け入れられるのを待ちながら・・・。


YYYs VOCAL, karen Oの影、映画館の赤いシート、暗闇を舞う無数の紙、血のにじんだコンクリートの上で絡み合うコンバースを履いた二本の足下、顔がマイクで隠れたカレンのラジオ収録風景、鼻まで切れた人相の分からない男が服を首まで捲ったところに見えるタトゥー、暗闇で閃光する赤い光・・・そのどれもが、それらの場面を説明するには不足しており、一枚一枚からは具体的ななにかが見えてくることはない。だが、どうだろう。一枚一枚をつなげて見てみると、そこにはたしかにニックの、優しく暖かい目線が残像のように浮かび出てくるではないか。


こうした流れは、一枚一枚が部分的だからこそ為せる業である。すべてを物語るのではなく、あえて削られた状態で提示されるからこそ、人はそれを見て悩み、考え、自分なりの解釈を行う。そういった意味では彼の今回の写真展は、観る者に考える余地を与えてくれる。と、同時にそれらのパーツパーツは『ニックだからこそ撮り収めることのできたもの』ばかりであるから、それらを構成させると自ずとNICK ZINNERが見えてくる。そんな仕掛けになっている。


自らの色を無くすことなく維持しつつも、見る側に見方を押しつけるのではなく、自由な見方をさせる。そんな、やさしい写真展であった。この写真展は12/2(日)まで開催しているので、ぜひ足を運んで実際に観ていただきたい。


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■Nick Zinner Photo Exhibition
“im done with today, looking for something else tomorrow”

at SOCIAL
1-22-5, Shibuya, Shibuya-ku, Tokyo

map ( click to open )


Posted by TOMO

田附勝「DECOTORA」

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「DECOTORA」
田附 勝


近頃さまざまなメディアで紹介されている本書。おおよそ十年ものあいだ、いわゆる"デコトラ"を追っかけ続けた田附氏が写真集に編んだものだ。テーマが派手なものだけに、よくあるパターンの"アーカイブ"かと思いきや、意外や意外。ページをめくってみると、大変構成の巧い一冊だということがわかる。


普通ならデコトラという強烈なテーマを扱おうとした場合、デコトラの派手さや格好良さといった表層的な部分を切り取る作業で貫徹してしまいがち。被写体の良さや小手先の技術に目を向けるだけでは、写真家とは言えない。それは職人である。そんなものは一年も経てば飽きられてしまうものだ。物珍しさとは至極一時的なものなのだから。


流行り廃りに揺るがないもの、それは「写真家(作家)としての問題提起」そして「飽くなき追究心」。これらを故郷とし、忘れないことである。なにかを伝えようという意志はそのときその人だけに出来ることであり、それこそ唯一性とも作家性とも言えるのではないだろうか。被写体への飽くなき追究心は、その作家の目線で捉えられる等身大の作家自身を写す鏡でもある。作家性とは、そうして生まれる。


この点からして、田附氏の「DECOTORA」は違った。まず、そこには確かに物語があった。デコトラとデコトラをとりまく人々の息づかいが生々しく閉じこめられていた。デコトラの運転手はもちろんのこと、デコトラを10年間かけて追いかけた田附氏だからこそ見つめることのできた「デコトラの環境とそこに息づく人々の思い」がこの写真集には籠もっている。ただデコトラそのものだけではデコトラのドラマは構築しえない。そしてそうしたドラマが、デコトラを通して作者の思いの強さを観る者の心に訴えてくるのである。


それをとりまく様々なモノ、事象、環境がそろってはじめて写真集は写真集として機能し、それこそが「編む」という行為でもある。写真集とはそれくらい生々しい生き物で、そのときその人にしか作り得ないものだからこそ唯一無二で尊いものなのだ。復刻版などにはないのは、そうした生々しい息づかいである。そしてそうした感覚を肌で知り、作り上げることができるのが、「写真家」なのである。


田附氏は間違いなく、"写真家"であった。

そして「DECOTORA」は間違いなく"写真集"であった。


*


どれだけコトバで綴ってみたところで、実物が見れなければ伝わるモノも伝わらないのは悲しいものだ。これも最近出た写真集なので中の写真をここに転載することは避ける。だが、ぜひ手にとって見てみて欲しい。一つ前の記事「犯罪の風景」でも指摘したが、「ワンコンセプト、リアルディスクリプション」がこの写真集でも息づいている。ただ「犯罪のある風景」は構成という点では物語性は感じられないが、「DECOTORA」は構成の点を言っても秀逸で、物語として見せてくるパワーと秩序がある。物語性とは、逆から見てしまうと秩序が感じられない構成のことでもある。そして「DECOTORA」は、一ページ目から順を追ってめくっていかなければ生まれない感動が潜んでいるので、まちがいなく物語である。

Posted by TOMO (keiichi nitta studio)

縣正三「犯罪の風景」

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「犯罪の風景 ある日、ある場所で。」
 縣 正三


8×10(エイトバイテン)の大判カメラによって切り取られた日本の或る風景。この写真集のなかで連綿と続くそれらは繊細な描写でいて、どこか儚く悲しい。一見、尾中浩二の風景写真を思わせる様でいて、しかし限りなく確実に"なにか"が違う。意識的に人を避けて撮ったからなのか、この写真集には人がほとんど写っていない。にも関わらず、なぜか人の気配を感じてしまう。注意深く見てみると、縣氏によって切り取られたこれらの風景が人工的なものであったり、極めて人と隣り合わせの自然ばかりであることが見て取れる。実に奇妙な写真集。幾度となく、開いてしまう。

タイトルにもある通り、これらは「犯罪の風景」なのであった。


過去に歴史的犯罪の行われた場所が写真家・縣(あがた)氏の手によって撮り集められ、その場を説明する文章とともに写真が編まれている。コンセプトとしては非常にユニークであると同時に、極めてシンプルでストレートな、感動とはまた違った衝撃を読み手に伝えてくる。8×10の選択も実に巧い。過去の犯罪現場の現状を写し伝える上で、精密かつリアルな特徴を持つ8×10の他に適したカメラがあるだろうか。ワンコンセプト、リアルディスクリプション。写真集の場合、これだけでも優れた一冊が出来上がる。その良い例として挙げられる一冊と言って良いだろう。


序文の最後には以下のように綴られている。

《殺人現場は時が経つにつれ風化し、当たり前の日常に戻るが写された表層の向こう側に「ある日、ある場所」は今もある。写真に先入観を持つことは本筋と思えないが、それでもキャプションを読んでから見る「人のいない風景」に、個人個人それぞれの感慨をもつのではないだろうか。》

人は想像することのできる生き物である。そして縣氏は、そうした、人が元来持つア・プリオリを利用し、なんの変哲もない風景写真に意味をもたらすことを実現した。そういった意味でいうと、この写真集は新たな可能性を作り出したと言っても良いのではないだろうか。


LINK → 縣正三写真集「犯罪の風景」


Posted by TOMO (keiichi nitta studio)

Anna Gaskell : Story

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Anna Gaskellは女の子の微妙な闇をうまく写真にとらえる女流写真家。

この一冊は、「不思議の国のアリス」をモチーフに、光と陰を絶妙なバランスで使いこなして怪しい世界観を生み出すことに成功しています。絡み合う、それぞれの顔が曖昧な幾人のものアリスたち。アリスがアリスをいじめたり、みんなでくっついたり。その様は、まさに異様とも呼べる光景。観ているとなんだか不安感すら感じてきます。


"同一人物の複数化"は、観る者の確固たる自己同一性を危ういものとしてきます。そして"見えない顔"は、そこに観る者を投影させるためでしょう。まさに読者がこの写真集の主人公であり、共鳴した瞬間、私たちはもうこの世界の登場人物なのです。ここに写っている彼女たちは、人々の"妄想の世界への渇望"を具現化するための"器"、と捉えても面白いかもしれません。現実世界における"アイデンティティ"を揺らがされることによって妄想の物語に入り込みやすくなった我々は、annaの世界の顔のない幾人ものアリスそのものとなるのです。


  

 


子供時代に妄想した童話の世界が目の前にこうして広がる様は、観ていて飽きません。本のサイズも33.4 x 24.2 cmととても大きく、この大きさはちょうど本を手に持って広げたときの視野範囲ギリギリなので、本を開いた瞬間、まさにannaの世界が観る者を襲ってきます。というわけで、写真集においてはその大きさもまた重要なポイントになってくるというものの良い例でしょう。


好きな人はとことん好きであろう、annaの写真。

花のように可憐でいて、しかしそこには計り知れない闇が潜んでいる。女の子ならではの世界を女性独特の感覚で表現されています。他の写真集でもモデルは女性に限っていたりと、女性独自の目線で女性のみを捉えている面白い作家です。物語性を重視している点では、なかなか希有の作家かもしれません。


Posted by TOMO (keiichi nitta studio)

荒木経惟 : ジャンヌ

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アラーキーこと荒木経惟氏が電通在籍時の25歳のころ、仕事以外の時間でスタジオを使って作品を撮ったりする時間がありました。そのころ影響を受けた映画「裁かるるジャンヌ」からインスピレーションを得て、外人モデルを引き込んで撮ったのがこの作品「ジャンヌ」。当時、アラーキーはスクラップブック4冊構成でこれを作り上げましたが、のちにそれごと行方不明になってしまい幻の作品に・・・。しかしこのスクラップブックの全頁を撮影した複製フィルムが奇跡的に発見されたことにより刊行されたのがこの一冊。なのでこれは写真集というよりは、複製写真集なのですね。荒木氏に撮られ、スクラップブックにまとめられ、それをふたたび荒木氏の腕によって複写される。度重なる撮影と現実の複写によって、「ジャンヌ」はおもしろい存在になっています。


ただ、内容はというとなんてことはなく、「若手がライティングの勉強をした過程を本にしました」というのが全体を通しての感想です。スタジオでの試行錯誤がうかがえる一冊、といった程度。しかしながらこれがアラーキーとなると話が変わってくるもので、この時代の写真家たちは写真集の一冊一冊がその写真人生の転換期であったり集大成として見ることが出来ます。この「ジャンヌ」もその例外ではなく、あのアラーキーがはじめてライティングを試行錯誤しながらストーリー性も含ませつつ作ったという点で、ひとつの転換期になっている一冊と見なすことが出来ます。というわけで写真集としても、評価のできる一冊になると僕は考えています。


Posted by TOMO (keiichi nitta studio)

森山大道 : 写真よさようなら

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ご好評いただきましたart特集ですが、新田の帰国までのあいだまた始めようと思います。


今回紹介するのは、日本の写真家の写真集でも最も重要な一冊のひとつと言える、森山大道氏の《写真よさようなら》です。最近、パワーショベル社より復刻版が発刊されましたが、元は1972年に出たものとして未だにその価値向上のとどまるところを知らない伝説の写真集になります。


この一冊は日本の写真史のみならず、世界の写真史においても多大な影響を与えました。なぜでしょうか?それは、タイトルにもあるように、大道氏はこの写真集によって写真から根本的な"意味"を排除してしまったからです。


元来より、写真には"記録性"という性質があります。それは、刹那の現実を写真は切り取ることが出来るということで、それまで絵画や文字で記録されていたのが写真の登場によって簡単に記録することができるようになったのです。では、この記録性。突き詰めてみると、写真撮影の明瞭な動機でもあります。人は現実を記録するために写真を写す。それはプライベートな場面での記念撮影から、データとしての記録写真まで、写真には一様にそうした「撮影における動機」が明確にありました。言い換えれば、「撮る対象を定めることから写真は始まる」というわけです。


ここを大道氏は「写真から意味を無くしたらどうなるのか」として、ぶちこわしたのです。そうして出来たのが、《写真よさようなら》。当時の氏の写真の特徴でもある、「アレ・ブレ・ボケ」に加え、構図もまったく不鮮明な写真が続きます。被写体も、どれを狙って撮っているかもわからないこうした流れは、上述した本来の写真の記録性を大変曖昧なものとしています。これこそ、タイトルの「写真よさようなら」というわけなのです。要するに大道氏は70年代初頭にすでに「写真へのアンチテーゼ」を提示していたのでした。


中平卓馬、高梨豊、多木浩二、岡田隆彦らによって1968年に創刊された写真同人誌《PROVOKE》の意が「挑発」であるとともに、その総括集《まずたしからしさの世界をすてろ》のタイトルを観ても判るとおり、この当時彼らは必死に思想に対するア・プリオリを排除しようと懸命でした。


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PROVOKE 1〜3 全巻


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《まずたしからしさの世界をすてろ》


《写真よさようなら》発行の1年後に出版される70年代を代表する写真家・中平卓馬氏の写真批評本《なぜ植物図鑑か》は、この当時の彼らの思考を探る上での重要な資料となってきます。ここで氏は写真性には「イメージ」という、《私から発し、一方的に世界へ到達するものと仮定され、そのことによって世界を歪曲し、世界を私の思い通りに染め上げる》ものが付随している、と考えられているのが世の中だと指摘しています。


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中平卓馬著《なぜ、植物図鑑か》 1973年発行


しかしこれを氏は《一方的な私の視線によって繫っているのではない》として否定し、さらは《そこには私の視線を拒絶する世界、事物の固い〈防水性の外皮〉がただあるばかりである》として、イメージという、ア・プリオリとして写真に付随している作家性を否定する考えが観られます。

氏は、絶対客観的資料としての"植物図鑑"を、こうした原理の究極として挙げていますが、僕には《写真よさようなら》こそがこの、写真のア・プリオリ的解釈を完全に否定・排除・崩壊したものとして評価できるのではないかと考えます。ライバル同士であった森山大道と中平卓馬、つねにPROVOKEし合っていただけに、中平の中で大道をそう容易く認めたくないという姿勢は、森山大道のエッセイ《犬の記憶》などでもうかがうことができます。


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森山大道著《犬の記憶》文庫版


こうした、ア・プリオリとしての写真性を真っ向から否定することに成功した大道氏はその後、数年間写真を撮ることが出来なくなってしまいます。なにせ、写真そのものを否定してしまったのですから、撮るものがないというのにも頷けます。この、あまりに圧倒的なドラマこそが、70年代の写真家たちの凄いところなのでしょう。


《写真よさようなら》。オリジナルはいまだ手にしたことがないので不明瞭な部分が多くはありますが、いつかは手に入れたい写真集のひとつです。日本が誇る歴史的な一冊としても良いでしょう。

しかし惜しいかな、ヨーロッパのコレクターたちの日本の写真集市場への参入によって、とりわけ70年代の代表的な写真集は急激な高騰化を見せ、いまでは百万円を下らない写真集がたくさんあります。川田喜久治の《地図》、荒木経惟の《センチメンタルな旅》、森山大道の《写真よさようなら》、《PROVOKE》…。日本人はどうにも自国の文化を大切しようという姿勢があまりなく、こうしてどんどん文化が海外に放出されてしまうという事実は大変に悲しいことです。今こそ、守るべき文化はたくさんあるはずだと思います。


数年前にカール・ラガーフェルドによって、「センチメンタルな旅」荒木経惟(1971)、「写真よさようなら」森山大道(1972)、「来るべき言葉のために」中平卓馬(1970)、プロヴォーグNo1、No2、No3(1968−69)の復刻版セットが《THE JAPANESE BOX》と称されて1500部限定で販売されたのも記憶に新しいでしょう。これは、たとえばサイズやカバーの紙厚に至るまでオリジナルと同じであったり使っている紙をかなり厳選して近づけていたりと、あまりの復刻の出来映えが良すぎてオリジナルと見分けがつかないほどの完成度だそうです。ここまでのレヴェルの復刻は日本では不可能だったことでしょう。こうした熱意が日本ではなかなか芽生えないのも悲しい現実です。


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《THE JAPANESE BOX》


Posted by TOMO (keiichi nitta studio)

飯沢耕太郎 : 写真とことば

art特集もひとまず今回でラストということで、最終回の今日は写真家から少しはなれて、写真を観る立場の人・写真評論家の本に着目したいとおもいます。


飯沢耕太郎・著《写真とことば―写真家二十五人、かく語りき》


「よき写真家は、よき文章の書き手でもある」という序文からはじまる本書は、写真評論家として有名な飯沢耕太郎氏によって編まれた、"写真と向き合う写真家たちのことば"の本です。25人の写真家を紹介するととともに、それぞれの写真ではなく"ことば"に注目するという一見変わった写真批評物ですが、これがまた、写真行為を繰り返す上でなにが重要かを教えてくれます。最近では、「写真家は写真を撮ればいい、自分の写真などについてウンチクや言い訳を言う必要はない」などといった傾向が強くありますが、それは明らかなる間違いといえます。写真は本来こそ「メタ言語的表現」であるわけですから、そこに言葉が付随してくるのはなんら不自然なことではありません。写真を撮れば撮るほど、写真に対する言葉というのは溜まっていくものなのです。そういった自然なことを、本書は再認識させてくれます。


本書でも紹介されている森山大道氏などに関しては、写真界きってのことばの魔術師です。その巧みなことばによる写真分析論を垣間見ていると、氏の有名なフォト・スタイル《アレ・ブレ・ボケ》が如何に小手先の表面的な表現ではなく、根本的な部分から写真という闇を捉えようという意識が見えてきます。ただ《アレ・ブレ・ボケ》をマネしたところで森山大道にはなれないのは、こうした「表現以前の写真への意識、その言語化」の有る無しに大きな違いがあるからに違い在りません。

そう、良き写真家ほど写真を自分なりに言語化している。本来メタ言語的存在である写真ですが、彼らの脳髄では更にメタ写真としての言語が潜んでいるということではないでしょうか。それなしでは、メタ・ランガジュージは有り得ないと、こうくるわけです。


本書はテキスト中心ですから、中身の紹介をし出すとキリがありませんので、少しでも興味を抱かれた方は本屋さんで手にとってみてください。まだまだ手に入りやすい本です。写真入門書として、これから写真を学んでいこうという若者には必須と呼べる本でしょう。


ということで、今回でart特集には一区切りをつけることになります。
これまでご愛読いただきました皆様方、ありがとうございました。


Posted by TOMO (keiichi nitta studio)

鬼海弘雄 : ぺるそな

鬼海弘雄氏は、浅草に来る人々を三十年以上撮り続けている奇特な写真家です。


ハッセルブラッドで切り取られた人々のポートレートは、ていねいな焼き加減のモノクロ写真として昇華され、氏のコメントとともに写真集として編まれています。と同時に、その特性を最大限に生かしているのは何者でもない、氏の腕の良さなのでしょう。技術面もさることながら、ていねいなプリント上がりからは、写真へはもちろんのこと、被写体への愛すら感じます。長年同じ場所で同じテーマで撮っているだけに、鬼海氏が街に溶け込んでいる自然さもまた、これを優れた一冊にしている要因に違い在りません。


ブローニー判特有の粒状性の良さが人々の肌を一層引き立て豊かにし、写真の記録性という面においてもきわめてレベルの高いアーカイブとして評価できる「ぺるそな」。とりわけ有名人なわけでもない、ただ浅草に訪れた人々を「撮り集め、並べ、人に見せ、その結果として人を魅せる」、そのことの難しさを想像するのは容易いこと。それをこの一冊が可能としているのは、上述した点もさることながら、一枚一枚に付随された氏のコメントにどうやらヒントがあるようです。


これは最近の写真集なのであまり中身を紹介するのは作者に申し訳ないのですが、ひとつだけ例を挙げさせていただきます。


《四十七年間ヒゲを伸ばし続けているという元沖仲仕 2001》
※クリックで別ウィンドウにて拡大されます


このように、少し変わったコメントがついています。たった1行のコメントに過ぎませんが、その1行がその人物の人生の一片をふと妄想させてしまう。そこが、この写真集の面白みのひとつでもあります。とにかく何十年も撮り集めているだけに、この写真集には「浅草にはかくも変わった人々が集まるのか」と思わせるだけの愛すべき奇人たちが集まっています。

そしてなによりもこの写真集において奇妙でもあり、興味深くもある点。それは、モノクローム故の《時間の喪失》でしょう。氏の撮り集めた写真は時代を超越するかの如く存在しています。2000年に撮られた写真がまるで70年代であるかのように見えたり、その逆も然り。


同じ人物を十数年区切りで数回撮影しているものもあり、それらを観ていると人間の変化を思い知らされますが、どこか他の部分では、同一人物であるにもかかわらず、"彼ら"と称したくなるほどにそれぞれが一個体の被写体として独立して見えるのも不思議なところです。これも、アーカイブとしての記録写真であるが故の倒錯なのでしょうか。


ポートレート写真集において、ここまで観させられるものはなかなかありません。


Posted by TOMO (keiichi nitta studio)

同人誌・KEN

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1970年発刊のもので、「KEN」という同人誌がありました。発行人の内藤正敏氏を中心として文化人が集まり、みな好き勝手にいろいろと掲載するというもので、写真家では荒木経惟氏、森山大道氏、中平卓馬氏、東松照明氏と、70年代日本写真黄金期の主を担っていた蒼々たる顔ぶれがここでは、ただ写真というだけではなく多角的な表現を試みています。

たとえばその最たる例が、荒木氏のもの。イラスト好きでも知られる氏ですが、ここでも「いま頭にきていることは?」と題打って、たくさんのコミカルな裸の女性のイラストが描かれています。その女性のオマタからセリフ枠が伸び、タイトル通りのさまざまな庶民の叫びが集約されています。


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荒木氏のイラストは、ズルいですね。愛嬌があり、かわいらしいです。ほかにも中平卓馬氏は対談で熱論していたりと、好き放題やっていて楽しそうです。

気になる森山氏は、やはりいつも通りにクールな写真連載ですが、当時の紙の質や印刷具合がとても良い案配に"モリヤマ・テイスト"を演出しており、実にたまりません。以前、伝説の同人誌「PROVOKE」の第二号を手にとって観たことがありますが、そのときと似た衝撃です。今と比べて当時印刷技術がどれだけ劣っていたとしても、やはり当時のものは当時出たカタチが最も適していますし、作者の思いと観る側の感動にズレがないというか、感性を共有できる感じが、復刻版などにはないものなのでしょうね。


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実に奇妙な一冊です。


Posted by TOMO (keiichi nitta studio)

藤代冥砂 : もう、家に帰ろう

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写真家・藤代冥砂氏による、妻でありモデルである田辺あゆみさんを撮った写真集。ページには写真と、それをどこで撮ったか、そして1行ずつのコメントが入り、独特のペースで展開してゆきます。

写真家・中平卓馬氏も言っているように、本来写真とはメタ・ランガージュとして存在する一面がありますから、写真に言葉を添えるというのはどこか反則のような気もします。でもそれが許せてしまうのは、奥さんへの愛がそれによって更に相乗的な効果を生み出すからでしょう。愛の前ではなんでも許せてしまうのが人の心情のようです。


心を許せる相手だからこそ、見せることのできるユルさや絶妙な表情。まっすぐにレンズの先を越してお互いが見つめ合っているのがはっきりと伝わってきます。荒木氏の言葉を借りるならば、「男と女の間には写真機がある」ということなのでしょう。写真集のもつ特性として、「編むことで写真家の思いを伝えることができる」というものがあると思いますが、これもまさにその性質を最大限に引き出すことに成功している一冊。


惜しむらくは、写真に添えられているコメントが撮った当時に残したものでなく、編む段階で記憶を思い出して綴っているということ。どうしても写真とコメントとのあいだに温度差を感じてしまい、勿体なく思ってしまいます。それでもその温度差・時間差を生かしてラストをうまくもっていこうと意識しすぎ、ラストが嘘っぽく無理矢理な構成になってしまったのは残念です。それでもステキなラストではありますが、ここで突き抜けるような、終わりのない終わり方をしてくれたら、それは荒木氏の「センチメンタルの旅」のような傑作になったことでしょう。

愛する人を撮ることの素朴なよろこびを再認識させられる一冊です。


Posted by TOMO (keiichi nitta studio)

孤高の写真家・深瀬昌久

今日は深瀬昌久という写真家を紹介します。氏は60年代後半〜90年代初頭まで活躍した日本が誇る写真家の一人ですが、意外にもこの日本ではあまり知られておらず、"知る人ぞ知る"という不幸な代名詞を必要とする写真家です。むしろ海外での評価の方が高いのは皮肉的なものを感じずにはいられません。


氏は往年の伝説的写真雑誌"カメラ毎日"を中心に作品を発表し続け、同時代に活躍していた荒木経惟氏と同様、自らの環境の内にあるリアルな被写体を追い求めつつも、然し深瀬の視線は荒木とは正反対の、より意識的に構築された世界で表現として還元させていました。たとえば写真集「遊戯」では、当時の氏とその妻・洋子氏との新婚生活を露わにさせているかと思えば、違う場面では打って変わって、洋子と自らの母を裸にさせ下半身には腰巻きを履かせて黒バックで撮影するといった、広告写真のような展開も見せています。


こうした氏の「現実と非現実の巧みな交錯」は以後の作品にも重要なテーマとして浮上してきます。カメラ毎日ではドキュメンタリー作品を多く発表していますが、たとえばカメラ毎日1966年の11月号では、「職場の中の人間回復」という題で様々な職場で働く労働者たちを描いていますが、その中でも印象的なのは「松下電器電池事業部自己管理室のマジック鏡」と説明書きされている一枚です。笑顔で楽しそうに写る労働者たちですが、その姿はと言うと、目の前のマジック鏡によって湾曲され、ゆがんでいます。姿はもはや人間ではないかの様に歪んでいるというのにも関わらず、その屈託のない彼らの笑顔に違和感を感じてしまうのは僕だけではないはずです。


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カメラ毎日1966年11月号


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カメラ毎日1966年11月号 題 「職場の中の人間回復」より
「松下電器電池事業部自己管理室のマジック鏡」


こうしたironyを含有させる氏独特の錬金術。やがてレンズ越しの対外的な対象だけでは物足らず、ついには自らもその実験対象としてしまいます。二度の離婚を重ね、孤独の内にこもっていった深瀬氏はどんどん寡黙な人間となってゆき、カラスを撮り始めるようになります。来る日も来る日もカラスを追いかけ、カメラ毎日にて断続的に発表していきました。そこの頃からセルフ・ポートレートに関心を持ち出し、得意のフォト・コラージュの素材として自分も登場させています。


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カメラ毎日80年3月号


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カメラ毎日80年3月号「烏・夢遊飛行」より コラージュ作品


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カメラ毎日80年3月号「烏・夢遊飛行」より コラージュ作品
深瀬氏自身もコラージュの素材の一部としてこの頃から登場し出した。


やがて、カラスをテーマとした作品群は写真集「鴉(からす)」として1986年に蒼穹舎から出版されます。ただ孤独にカラスを追い求めた深瀬の写真に写っていたのは紛れもない深瀬自身でした。モノクロとカラスは見事に当時の深瀬の心を反映させ、とめどもない悲しみと儚さが伝わってきます。写真集ラストの一枚は布団をマントのように身にかけた浮浪者の後ろ姿ですが、もはやこれはカラスとしか見えません。深瀬の眼はこの頃、カラスを狩る者として、すべての事象がカラスにとって変わって見えていたのでしょう。その視線が生々しく伝わってくる一枚です。この「鴉」、日本の写真史においても大変貴重な一冊として評価されており、発売から20年しか経っていないにもかかわらず、市場での価値高騰は歯止めを知らないのが現状です。


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「鴉」海外版 「The Solitude of Ravens」


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「鴉」海外版 「The Solitude of Ravens」よりラストカットの浮浪者


こうしてカラスシリーズに終止符を打った深瀬は、そのあと急に目標を失ったかのように力を失ってしまいます。この頃から彼は、被写体を失ったにも関わらず、とめどもなく常に吹き出していた写真欲をどうにか解消するためか、自然とセルフ・ポートレートの類を撮るようになります。

ゴールデン街にて会った人と、舌と舌とを絡み合わせたところを撮った「ベロベロシリーズ」。風呂桶に浸かった自分を丸一ヶ月撮り続けた「ブクブクシリーズ」。そして、様々な土地でその背景をバックにしながら顔の一部や足などをフレームに入れて撮った「私景シリーズ」。どれも深瀬氏自身が被写体の一部として登場してきます。この頃、自分を撮るのが楽しかったようで、四年近く全ての写真に自分をフレーム・インさせて写していたようです。


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hysteric glamour刊 「bukubuku」


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hysteric glamour刊 「bukubuku」より一部


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岩波書店 「日本の写真家34 深瀬昌久」


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岩波書店 「日本の写真家34 深瀬昌久」より 「私景シリーズ」


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「日本カメラ」92年三月号・切り抜き資料より 「私景シリーズ92'」 一部カット


こうして、氏はだんだんと写真の世界に自分が入っていきました。思えばブクブクシリーズで写真という母の胎内に還っていき、私景シリーズでその産声を上げたようにも感じられます。実際、氏は私景シリーズ92'の個展のすぐ後で、不慮の事故によって写真家生命を断念せざるを得なくなってしまいます。そこから氏の情報は、老人福祉施設にて過ごしているということの他はなにもありません。まさに写真にのめりこんでいった結果、自ら自身をも崩壊させてしまった壮絶な写真家でした。


この時代の写真家たちは、みな命を懸けて写真に取り組んでいたように思います。中平卓馬然り、荒木経惟然り、森山大道然り。中平は一度記憶を失うまでに写真に取り憑かれていましたし、荒木は自らの母・父・妻の死すらも被写体にし、そこからエロスとタナトスをいっしょのものとしてエロトスを表現し続けています。森山大道もまた、「写真よさようなら」でそれまでの写真に在った前提条件、「人は意味を持って写真を写し、だからこそ写真に写るものにはなんらかの意味がある」を覆し、まったくの無価値・無意味の写真を構築してしまい、その後数年はまったく写真を撮らなくなっています。


それほどまでに写真に取り憑かれ、それぞれの主観と価値観で、違う道を進みながらも、誰よりも写真を愛していた70年代の写真家たち。彼らと比較すると、どうしても今の時代の写真の力の無さが悲しくなってきます。あの頃のようなハングリーな熱情は、飽食と言われる今の時代には古いのでしょうか。今こそ、彼らと同じく、写真と心を交わし、自ら骨を断ち肉を切る思いで写真に立ち向かっていきたいものです。


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猫好きで知られる深瀬氏は猫の写真も数多く出しています。
左 : 「猫の麦わら帽子」 右 : 「サスケ!!いとしき猫よ」


Posted by TOMO (keiichi nitta studio)

森山大道 : KAGERO & COLORS

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森山大道氏の伝説的ヌード写真集「蜻蛉」がPower Shovel Booksより復刻刊行されたようです。氏の唯一のヌード写真集として有名な一冊ですが、そのこともさることながら内容はというと"SM緊縛"。すさまじいです。以前Power Shovel Booksから氏のこれまた超伝説的写真集、「写真よさようなら」が復刻されていますが、まあ、Power Shovel Booksの場合は復刻というよりかはリメイクと呼んだ方が良いでしょうか。プラスアルファ的要素をつねに加えているようで、今回の場合は「蜻蛉」+「70年代ヌード作品」のコンバイルだそうでやる気が伝わってきます。まったく同じ内容の完全復刻も良いことですが、新しいものを作り出すっていうのも意欲的でステキですね。この機会に日本が誇る70年代日本写真全盛期の一片に触れてみるのも良いかもしれません。


KAGERO & COLORS
(カゲロウ&カラーズ)

著者:森山大道
発行:パワーショベル
発売:星雲社
版型:370mmX265mm
  (ハードカバー)
ISBN:978-4-434-10802-0

7,350円
(本体価格7,000円)


LINK → KAGERO & COLORS


Posted by TOMO (keiichi nitta studio)

BOB RICHARDSON

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TERRYの父、BOB RICHARDSONの写真集が届きました。これは世界で七冊だけのSPECIAL EDITION。貴重です。なかは、彼が撮ったファッションフォトを、雑誌からそのまま取り入れたものから、新聞の記事などなど、いろいろなスタイルでのBOB PHOTOを詰め込んだ、まさに「BOB BOOK」。ぜひともTERRY の写真集「SON OF BOB」とそろえて本棚に入れてほしいです。amazonだと2007/09発売になっています。ぜひとも手に入れてくださいね。

LINK → amazon.co.jp : Bob Richardson


Posted by TOMO (keiichi nitta studio)

Loretta Lux

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この奇妙なこどもたちの写真。どこか違和感を感じずにはいられない、これらを撮ったのはドイツの女流写真家、Loretta Lux(ロレッタ・ラックス)です。彼女はデジタルという最新の技術を駆使しながら自らの世界観を描き出す作家。よく見てみると、背景との調合に違和感を感じます。そう、彼女はこどもたちを撮って、その写真を人物のラインに沿って切り抜き、違う背景にPC上で合成しているのです。この手法は、あたかも「不思議の国のアリス」でアリスが薬やクッキーを食べて背が大きくなったり小さくなったりするように、本来の均衡のとれた世界とは一歩離れた、おとぎの国であるかのような表現を可能にしています。


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ドイツの写真家たちはこのように、本来であれば伝統とは間逆のものとして異端として扱われているデジタルをなんの抵抗もなく表現手段のなかに取り入れたりと、なかなかにして興味深い実験を重ねています。アンドレアス・グルスキーなどもそうです。彼らのそうした経緯を見てみると、もはや写真家は純粋に写真のみを追い求めるものではなくなったのではないか、とも捉えることができます。表現芸術の中での「写真」というツールを使って「アート」する。つまり、「写真」で「写真」をする時代ではなく、「アート」する上での「写真というツール」に。もはや写真も「絵にとっての筆」のような存在になってきているということです。おもしろい時代になってきたと思います。

LINK → Loretta Lux Offical


Posted by TOMO (keiichi nitta studio)

ellen von unwerth : revenge

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ellen von unwerthは変わった経歴を持った女流写真家。20のときにモデルとなり、パリでは有名なモデルエージェンシー"エリート"の所属するものの、10年間ものあいだ腰を据えてわかったことは、「モデルは短命である」ということでした。そんなある日、彼女の元に一つの転機が。1984年に彼女がドイツの雑誌"Jill"のモデルとしてケニヤに派遣され、そのとき彼女はカメラを持って行き写真を撮りました。その写真をJillに持ち込み、掲載されたところから彼女の写真家としての第二の人生が始まりました。そこからは、その写真をキャサリン・ハムレットに持ち込んだら気に入られてキャンペーンの仕事を任されたりと、もともとファッションの世界に生きていた人間ですから、おのずとファッションフォトを撮るようになっていきました。

これは、そんな彼女の写真集のうちの一つ。写真のみで進行するフォト・ストーリーを展開させ、人間に潜むセクシャルな欲求を探求しています。 ストーリーは、強いインパクトを持つサド・マゾ的エッセンス。 3人の若い女性が男爵夫人の領地に週末の気分転換にと招待されますが、男爵夫人、運転手、使用人たち は彼女達の想像を越えた展開を考えていた、という展開になっています。飽きることのないそのストーリー性もさることながら、彼女独特のセクシーフォトは一見の価値があります。

ファッションのひとつのあり方として、ストーリーとともに服を見せる。そんな、とてもうまい構成になっています。一度チェックしてみてくださいね。


LINK → amazon.co.jp : "revenge" by ellen von unwerth

LINK → STALEY WISE GALLERY : ellenvon unwerth 'revenge'


Posted by TOMO (keiichi nitta studio)

VICE PHOTO ISSUE

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むかし僕も出たことのあるVICE MAGAZINEの新しい号が出ています。いま出てるのがPHOTO ISSUE。普段より大きめのサイズで写真も迫力あります。毎号、世の中の裏側にCLOSE UPしている雑誌なので濃い濃い。興味ある方は探してみてくださいね。FREE MAGAZINEなのでなくなったら終わり!!セレクトショップとかにあるみたいです。みんな、急げーー。


LINK → Vice Magazine - Current Issue

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